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「本当に頭いい人はわかりやすい説明ができるはずだ」という言葉が大嫌いだ

「本当に頭いい人はわかりやすい説明ができるはずだ」という言葉はバカが「わしらにわからんような話をする奴はバカだ。わかるように話せ」という傲慢なニュアンスで使うから好きでないが、そもそも論理的にも正しくないように思う。

実際には頭いいけれど説明がわかりにくい人もいるだろうし、そういう風に話したくない人もいるだろう。
そもそもバカにでもわかるように説明するには工夫が必要でエネルギーがかかる。その上何かを曲げて説明することになるので厳密性が失われる*1。そして得られるものは少ない。合理的な人はそんななんの特にもならなそうなことに労力を割きたくないし、誠実な人や神経質な人は不正確な説明をするのに抵抗を感じるだろう。

だがとりあえず、「本当に頭いい人はわかりやすい説明ができるはずだ」が論理的におかしい*2ように感じることに的を絞って、命題・対偶・逆・裏にして並べることであぶりだせるかもしれないと思ったのでやってみた。

命題・対偶

命題「頭いい人なら分かりやすい説明ができる」
対偶「わかりやすい説明ができないなら頭がいい人ではない」

裏・逆(命題・対偶とは実は直接の論理関係はない)

裏「頭いい人でないならば分かりやすい説明ができない」
逆「わかりやすい説明ができるなら頭がいい人だ」

このケースでは命題の裏・逆である「頭いい人でないならば分かりやすい説明ができない」「わかりやすい説明ができるなら頭がいい人だ」のように思える。
そしてそれならその反対である「頭いい人なら分かりやすい説明ができる」「わかりやすい説明ができないなら頭がいい人ではない」は真とは言えないということができる。

と、このように並べてみたのだが、そもそも命題・対偶と裏・逆は直接の論理関係はないから、片方が偽だからといってもう片方が真ということはできないし、逆も然り。だから命題・対偶・裏・逆を導いて片側を真だ偽だと断じたところでもう片方の真偽を論理的に導けるわけでなく、あまり意味はなかったのだった。


そもそもAならBであると言えるためにはAとBが親子関係(必ず含まれる)になっていなければいけない*3
「頭いい人」の親集合が「わかりやすい説明ができる人」ではないし、「わかりやすい説明ができる人」の親集合が「頭いい人」というわけでもない。
「頭いい人」と「わかりやすい説明ができる人」は対等の関係、ベン図でよく見る重なる部分がある2つの丸だろう。
ただ全く関係がないわけではないから重なる部分が大きいだけで、頭がいいのに説明が下手な人も、頭がよくないのに説明が上手な人もいるというだけの話だ。
つまり、そもこれは「AならばB」という論理で扱われることが不適切な話なのだ。

こんな理屈をこねなくても、頭いい人でも簡単に説明するのが難しいことがあるのは、法律や情報科学のような「人間が勝手に定めたルール」は非直感的で非統一的で簡単に説明するのが事実上不可能なものが多いことからもわかる。

*1:わかりやすさのためにむりやり喩えたり複雑な条件を度外視したりするからだ

*2:日本語の「AならばB」の意味の、論理的イコールの意味について考えてるのであって、因果関係・時間的前後関係の意味について考えてるのではない。「曇ってきたならば雨が降る」などは後者の例だ。日本語ややこしい。

*3:「AならばB」とは「Aの親集合はB」、「BでないならAでない」とは「Bが親集合でないならAでない」と言い換えることができる